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1960年代、公民権運動がアメリカで支持を集め始めた頃よりも以前、マイノリティと呼ばれる少数民族の人々は、人種隔離政策などの差別や迫害に苦しんでいた。
複数のグラミー賞と大統領自由勲章を授与された著名な黒人ジャズシンガー、エラ・フィッツジェラルドも、その被害を受けていた1人だ。
彼女の親友だったという往年の大女優マリリン・モンローが、そうした時代に真っ向から反発し、フィッツジェラルドを白人と同等の舞台に立たせるための手助けをしていたのはご存じだろうか?
マリリン・モンロー(左)とエラ・フィッツジェラルド(右) Source: Unknown
フィッツジェラルドから歌声のスキルを学んでいたというモンローは1954年、ロサンゼルスで彼女のパフォーマンスを鑑賞し、その後2人は友人同士になった。
当時の人気ナイトクラブ『Mocambo』のオーナーが「(フィッツジェラルドは)太っていて可憐さに欠け、この場に相応しくない」として彼女の出演を拒否した時、モンローは「もしエラを受け入れたら、私は他のセレブを連れて毎晩このクラブに来ます」と告げたというエピソードがある。
そうしてフィッツジェラルドは、アフリカ系アメリカ人として3人目となるMocamboでのライブコンサートを行い、チケットが売り切れるほどの人気を得たのだ。
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これを転機にフィッツジェラルドの名声が高まり、様々な人気クラブから彼女へ出演オファーが来るようになった。
一方で、未だに彼女を黒人という理由だけで差別する施設が存在していた。例えば、白人のように正面ドアからの入場ではなく、人目に触れないような裏口からの出入りを要求されていたことも、その1つだ。
そこでもモンローは自身の特権を使い、親友のエラに再び助け舟を出す。
中西部コロラド州のクラブで、スタッフがフィッツジェラルドに裏口から入るよう誘導していた光景を見たモンローが、彼女を正面のドアから入らせない限り自分も中には入らないと主張したのだ。そして同クラブは、モンローの要請を聞き入れた。
伝記作家ジェフリー・マーク(Geoffrey Mark)氏によると、こうしたモンローからの手助けもあり、以降フィッツジェラルドは人種差別的な扱いを受けることが激減したという。
Source: Sam Shaw
アメリカ社会のなかで人種差別が蔓延していた時代、周囲からの視線や圧力を一蹴した大女優マリリン・モンローの勇ましい行動によって、1人の黒人女性が名誉ある表舞台に立つことが出来た。
しかし、私生活や仕事のストレスで精神的に苦しんでいた晩年のモンローは1962年、36歳という若さでこの世を去ってしまう。
彼女の死後の1972年、フィッツジェラルドは雑誌『Ms.』の取材に応え、「私はマリリン・モンローに、返さなければならない多大なる恩義がある」と深い感謝の意を表している。